『感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性』

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感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)

感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)

とっても楽しみにしていたので、発売日(?)当日会社の帰りに買って、居酒屋で酒を呑みながら一気に全部読んだ。『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)』、『知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)』に続く三部作もこれで終わりなのかな? 少し寂しい気もする。

今回は比較的経済学なんかにも近い話題だったので「知ってたよ!」という話も多かったのだけど、それを差し引いても、相変わらず難しい内容でも楽しく読み進められるように工夫されていたと思う。とくに「哲学史家」「行動経済学者」「認知科学者」「動物行動学者」「実存主義者」の方々、お疲れ様! そして何より「司会者」さま!

個人的には「カント主義者」のファンで*1Twitter では少し活躍すると聞いたので楽しみにしていたのだけど、それほど目覚しい活躍の場も与えられず、「司会者」に「また別の機会にお願いします」と釘を刺されて終わってしまった。もう、かわいそうという気持ちを通り越して、ある種判官贔屓というか“萌え”というか、そんな気持ちすら芽生えてくる。ぜひ次は『カントの限界』とか書いてあげてほしい。そんな題名だと「カント主義者」がまた癇癪を起こしそうだけど、そこは、まぁ、また「カント・ミームが増えるよ!」とでも言っておけば満足すると思う。

それにしても、途中「ある日本の研究者」が登場するのはヒドい。とうとう本の中のおしゃべりに口を挟みたくなったのかな? あんまりおかしくて、ちょっとだけビール吹いてしまった。

「第五幕のどまん中で死ぬやつなんかいるものか!」

ふと『ソフィーの世界』にあった、劇中でそんなセリフを吐いてしまうロマン主義時代の演劇の話を思い出した。あのなかでは、このロマン主義的イロニーを鍵に最後は登場人物が本のなかから飛び出してしまうのだけど……この本では、まさかね。でも、僕たちは“限界”のなかで閉じ込められた存在なんじゃなくて、何かのきっかけでその外に飛び出せるのかもしれない、というのは少し“感じた”。根拠はないけど、これは僕の“システム2”による直観だ。

けれど、それだってソフィーが自分を本の中の存在だと自覚してはじめて可能だったように、きっと僕達も“限界”に縛られた存在であると自覚してはじめて可能になるのだと思う。なので、まだ読んでない人は是非3部作全部読んで“限界”を感じてほしいですね。

今回は知性・理性ではなく、あえて感性に任せて感想を書いてみました ☆(ゝω・)vキャピ

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ひとつだけ注文をつけるなら、“インスピレーション”についても触れてほしかった。これって“感性”の守備範囲だと思うし、ヒューリスティックの問題でも、論理の問題でもない。あと、“効用は計れるか?”という古典的な経済学の問題がスルーされているのも気になった。喜び、苦しみ、嬉しさ、悲しさは比較可能? これは「感情を科学できるか?(論理的分析の対象にできるか)」という問題にもかかってくる。科学の基本は「すべてを測れ! 測れないものは測れるようにして測れ!」だと思うけど、もし感情が比較不可能ならば、既存の科学的手法以外の何かが必要な気がする。

あ、注文がふたつになっちゃいました!

*1:今挫折中だけど、これがきっかけで『純粋理性批判』を読み始めた