自分本意な欲望と勘違いした理想の結合としての教育制度について

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戦前の小学校教諭は何故子ども達に必死で勉学を教えたか。それは少なくない子どもが、小学校卒業時の学力で世の中を渡っていかなければならなかったからでしょう。[低い学力で子どもたちを社会へ送り出すということは、教師にとって倫理的に許されない行為でした。]


戦後、誰もが中学に上がれるようになり、小学校教諭は落ちこぼれをそのままにしておくことが(倫理的に)許されるようになりました。


次に「十五の春を泣かせるな」と必死になったのは中学教諭です。日教組の政治運動として[より高度な教育を子どもたちに与える機会を増やすべく、または自分たちの雇用の場を増やすべく]高校全入を主張する一方、やはり何とか子どもに授業内容を判らせようと取り組みました。


しかし、高校全入が実現したら中学教諭も落ちこぼれを放置することが倫理的に許されるようになります。


そして、今では希望さえすれば、そして大学さえ選ばなければ、「大学全入」の時代になりました。……


だから、今では子どもがどんなに落ちこぼれても、小学校教諭、中学校教諭、高校教諭は倫理的な責任を感じずにすむのです。


日本橋大学の教員に対する同情とエール(森口朗) - BLOGOS(ブロゴス)

勝手ながら、僕が……部分に省略を施し、[]部分は補ったので、筆者の意図と食い違いが生じているかもしれない。ぜひリンク先を直接参照していただきたい。

そもそも「全入」が善とされたのは、より高度な教育を子どもたちに与えるのが善である、という考えに基づいている。それにはまったく反論の余地がない。けれど、それを享受する側の意思は無視されている。

僕は大学を途中で辞めて働きに出たのだが、そうして初めて気がついた。大学時代の自分は自分なりにいろいろ勉強しているつもりだった。けれど、自分にとって何が必要で、なんのために勉強しているのかということについては、とても曖昧だった。毎日、自分にとってなにが面白いのかを探して彷徨い歩いていただけだったと、今になって思う。それは決して無駄ではなかったけど、今の僕がお金の心配なしに勉強する時間を与えられたとしたら、当時の僕以上に勉強しただろう。今は、とても勉強に飢えている。探し求めて彷徨い歩かなくても、知りたいことがある。あの頃は大学には話すに足る友達がいて、笑笑だの樽八だので酒を飲みながら喧々諤々議論するその青臭さに耳を傾けてくれる師が居た。でも、今は独りで本を読んで考えるしかない。時折、社会の忙しさの合間を縫って友達と語り合うのが関の山なのが切ない。

貧困や身体的ハンディキャップを理由に教育が受けれられないのは間違っている。そして、より多くの人が、なるべく高い教育を受けるのが望ましい。だから、「全入」は確かに望ましい。けれど、全員が、その必要も知らずに、時を同じくして、教育を受けなければならないわけではない。ヒトはそれぞれ独自の発達段階を経る。だから、それぞれに教育を必要とする年齢も各自異なるだろう。「全入」はそれぞれの人生において、死ぬまでに果たされればそれでいいのではないか。

だから、人生のうちに一度だけ無償で使える、初等教育から大学教育までをカバーした「教育バウチャー」みたいなのを創設して、みんなに配るのがいいと思う。

おじいさんになってから高校に通ってもいいじゃない? 失職を機会に自分を見つめ直す時間がほしいという場合の「テクニカルタイムアウト*1に使うのもアリだと思う。子役アイドルは勉学と仕事を必ずしも両立させなければならないのだろうか。仕事に集中して、限界を感じたときに勉強するのだってアリじゃない?

今の全入制度*2は、自分本意な欲望と勘違いした理想が結合したインテリの愚かさの結果にすぎないと思う。ヒトに教えるだけでのんべんたらりと生きていきたいヒトたちが、自分にとって都合のいい論理を振りかざして、自分の座る椅子をせっせとこしらえただけの話だ。